寂寥のあと

幾美(いくみ)といいます。小説や日記を書いています。

幸運

「琴」の続きです。未読の方はそちらを先にどうぞ。

 

 それから、私たちは下校時間になるまでたくさん話をした。好きな芸能人のこと、よく聴く音楽のこと、数学の授業を受け持つあの先生は知っているかとか。
 話をしていて、アヤちゃんはとても聞き上手だということに気が付いた。最初に話題を振ってからうんうんと相づちをうち、そして続いて質問を投げかけてくる。ずっとニコニコしているし、私が何か聞いた時も楽しそうに答えてくれる。目の前に座る彼女の指先を見つめながら、この子は愛嬌のある子なんだなと実感する。
 チャイムが鳴ったことを意識の遠くでしか気が付かなかったから、見回りの先生が来てようやく下校時間が過ぎていることを知った。二人して、やばいやばいと言いながら、結局今日は一度も使わなかった琴を片付ける。急いで荷物をまとめ、部室の鍵を閉めて職員室へ走る。こんなに遅くなったのは初めてだ。いつも遅くまで練習している運動部の生徒でさえ全然見当たらない。
 アヤちゃんと二人、肩で息をしながら職員室の扉を開ける。残っている先生に何か小言を言われるだろうと構えていたが、鍵を受け取った若い男の先生は、次からは気を付けるんだぞとだけ言って職員室の奥へ歩いて行った。
 拍子抜けしていると、隣にいるアヤちゃんがニヤリと笑う。私たちの日ごろの行いがいいからだよお、と言いながら職員室を出て、校舎を出る大きな扉をくぐる。え、まってよあの先生、いつもいろいろ言ってくるじゃん。アヤちゃんの後ろを追いかけながら放つ私の言葉に、予想外の返事が返ってきた。
「アヤさんね、幸運の女神さまなの、うふふ」
 自分で冗談を言いながらおかしくなったのか、アヤちゃんは途中からくすくすと笑っていた。でもそんなアヤちゃんがなんだかとても愛らしくて。
「じゃあ女神のアヤさま、これからお茶でもいかがですか?」
 もうすっかり日も暮れていて誘うつもりなんてなかったのに、いつの間にかまだもう少し一緒にいたいと思っていた。いいね行こうよ、と私の誘いに満面の笑みで返事をしたアヤちゃんと二人、ぴかぴかと街灯の輝く道を歩いてファミレスに向かった。

双子

 私には一つ歳が下の弟がいる。喧嘩するほど仲が良いというのか、子どもの頃からずっと隣にいた私たちは、何度も喧嘩をし、その度に仲直りをして、そしてまた喧嘩をして。ときどきお互いに手が出ることもあったけど、歳を重ねるにつれて殴り合いの喧嘩どころか、喧嘩自体が少なくなっていった。
 その頃の私は、長女なんだから、お姉ちゃんだからという言葉を気にするようになった。両親は意味もなくその言葉たちを発していたようだったが、なぜか周囲の目を異常に気にするようになり、勉強にも部活動にもとにかく全力を注いでいた。
 一方で中学生になった弟は最近友達ができたと言って、どんどん帰る時間が遅くなっていた。お母さんが学校に呼び出されることも多くなり、誰と喧嘩をしたのか分からなかったが、ボロボロになって帰ってくることがあった。両親が声をかけても無視をする、家にいるかと思えば気がついたらふらっと出かけている、そんな日々が続いた。

「ちょっと迎えに行ってくるから」
 夜、勉強をしているとお母さんが私の部屋に入ってきた。どうしたのかと返事をしようとしたが、私が振り向く前に出て行ってしまった。急いでいるのか分からなかったが、いつもと様子が違ったような気がした。

「ちょっとリビング来て」
 迎えに行って、弟を連れて帰ってきたお母さんが告げた。神妙な面持ちだった。自分の部屋を出てリビングに行くと、お父さんと弟がいた。
「万引きしたって」
 お母さんの声が響く。弟はうつむいたままだった。
何をしているの、どうしてやったの、何を、誰と、一人で? 頭に浮かぶ疑問はたくさんあったが、私の口から発せられることはなかった。
 問いを続ける両親とそれにぽつりぽつりと答える弟を、私はただただ見ているだけだった。

 そういえば前に、双子の姉妹の友達が言っていたな。私たちは二人で一人だから、片割れが何を考えているかなんてだいたい分かっちゃうの、って。

「なんていうかさ、」
 問い詰めるお母さんと、黙っているお父さん、下を向く弟が私の声に反応する。
「なんか、分かるよ。苦しいの。しんどいの分かるけどさ、ダメはダメだよ。アンタやればできるんだから、勉強も、ほんとは、好きでしょ」
 言葉が詰まる。どうして私が泣いているのだろうか。そっか、私も息苦しいからか。
「だからさ、いろいろやってみなよ。運動も、できるじゃん」
 私たちは姉弟だから、双子ほど何でもお見通しなんかじゃないけれど、それでも分かるよ。アンタが生きるていくのがものすごく下手くそなことくらい。
 お母さんのすすり泣く声が聞こえた。下を向いていた弟の表情はよく見えなかったが、肩が震えていたからたぶんアイツも泣いていたと思う。

チェス

「オレ、チェスはじめた!」
 昼休みになり騒がしくなった教室が、親友の声で一層うるさくなる。
 こいつはとにかくミーハーなんだ。バスケの漫画にハマるとバスケを始めて、自転車競技部の映画が流行るとロードバイクを買う。厄介なのは、特別興味もない俺をいちいち巻き込んでくるところだった。
「はあ? 俺はやらないからな」
 誘われるのはもう分かっているから、誘ってくる前に断りを入れる。
「ええええそこをなんとかさあ、ねえ、おねがいっ! この通り!」
 その言葉とは裏腹に、親友は腕を組んでふんぞり返る。お決まりの流れだ。
「それが人に物を頼む態度かよ」
 いつものパターンだと分かって笑いを我慢していても、自然と笑みがこぼれてしまう。どれだけ断り続けても最後は俺がこうやって笑わかされ、しぶしぶ折れていろんなことに付き合うことになる。何だかんだ、振り回されることが苦ではないのに気付いたのはいつだっただろうか。
「はあ……とりあえず飯食おうぜ」
 俺が誘いに乗ることに気付いた親友は飛び跳ねそうなくらいに喜び、自分の席に戻って満開の笑顔を咲かせながら弁当を持ってくる。ああ、俺は本当にこいつに甘いなあ。

 私の通う高校は文武両道をモットーに部活動にも力を入れる方針で、生徒全員が何かの部活動に入部しなければならなかった。進学科で入学した私のクラスメイトたちは勉強を優先するために、運動部よりも活動が少ない文化部に所属する人が多かった。
 私は小さいころ少しだけ琴を習っていたことがあり、他に入りたい部活もなかったため琴部に入部した。そこで出会ったのがアヤちゃんだった。
「お勉強たいへんでしょ? 遅くまでおつかれさま」
 彼女は普通科で私より早く授業が終わるため、いつも早くから部室にいた。高校に入学してから琴を始めたようだったが、琴の前で背筋を伸ばす姿は普段のおっとりした雰囲気とは違い、凛としていてとても美しかった。サボることもなく一生懸命に稽古をする姿勢は、顧問の先生からも ❝アヤちゃんをお手本にするように❞ と言われるくらいに評価が高かった。一方でそんな彼女は、マキちゃんは経験者だしとても上手だよと、ろくに稽古に来られない私のことをたくさん褒めてくれていた。
 一年生から三年生まで合わせても部員はたったの七人だったが、バラバラの学科に所属している私たちが普段から全員が揃うことなんてほとんどなかった。そしてある日、部室に行くとアヤちゃんが一人で調弦をしていた。
「あれ、今日一人?」
 いつも授業が長引いて来るのが最後になる私は、珍しい光景に一瞬立ち尽くした。
「そうなの、先輩たちみんな予定があるみたい」
 ぽーん、ぽーん、と弦を爪で弾く音と一緒に返事がある。まあこんな日もあるかと、鞄を置いて壁に立てかけてある琴を手に取る。アヤちゃんから少し離れたところに移動し、真四角に尖った爪を右手親指につける。
 チューナーの電源を入れ、演奏するために必要な琴柱と呼ばれる白いパーツを弦の間に挟んでいく。手前の弦から音を鳴らしていき、左手で琴柱を左右に動かしていく。十三本すべての音を合わせふと顔を上げると、既に調弦を終えたアヤちゃんがこちらをじっと見つめていた。
「どしたの?」
 いつもは和やかな表情の彼女が、目を凝らしてこちらを見ていることにどきりとする。
「マキちゃんの髪って、長いのに毛先まで綺麗だよね」
 そう言うとアヤちゃんは、こちらに近づいてきて私の髪にそっと触れる。爪をつけていない左手で少しのあいだふわふわと触り、パッと顔を上げる。
「ねえマキちゃん! 今日は先輩たちもいないしさ、お話ししようよ」
 真面目で努力家な彼女の言葉とは思えなかったが、花のような笑顔を間近で咲かせる彼女の提案を断る理由なんてなかった。
 私は座布団を運び、アヤちゃんと向かい合って座る。ふたりきりの部室には朱い朱い夕日が差し込み、私たちの話し声だけが響いていた。

落葉

 秋が深まる時期に、落葉を集めて焼き芋を焼くことが昔からの夢だった。

 私がまだ小さかった頃、共働きの両親の代わりに面倒を見てくれていたのが近所に住む父方の祖父母だった。いつも笑っていて穏やかな祖父と、働き者でしっかりしている祖母。祖母の買い物へ着いて行ったり、祖父に手を引かれ家の周りを散歩したり、祖父母が愛情を注いでくれていたからか、一瞬たりとも寂しい気持ちを抱くことはなかった。

 私が小学生なり一人で留守番ができるようになってからも、時々祖父母の家に遊びに行くことがあった。学校が終わると一度ランドセルを置きに家に帰って、そしてすぐ自転車に跨る。もちろん友達と遊ぶこともあったが、週に一日くらいの頻度で自転車に乗って十分の距離を走った。
「ねえ、じいちゃん。あたし焼き芋たべたい!」
 夏の暑い日、季節外れの提案に祖父は驚いていたようだったが、じゃあ今度落葉を集めてやろうかと言ってくれた。てっきりスーパーで買うものだとばかり思っていた焼き芋が、落葉で焼いてできるなんて。想像するだけで楽しくて、その日家に帰ってから真っ先に両親に報告した。

 中学生になった頃、働き者だった祖母が病気で体調を崩した。詳しいことはよく分からなかったが、母は仕事を辞め、祖母の入院に付き添ったり退院してからの身の回りの世話をしたりするようになっていった。なんだか気軽に祖父母の家に行ってはいけないような気がして、家で過ごすことが多くなった。

 高校一年の時、祖母が長期入院をすることになった。入院の日に両親と祖父と私は祖母のいる病室へと向かう。前よりちょっとだけ顔色が悪くなった祖母を見て、泣きそうになるのをぐっとこらえた。今泣いたらダメだ、入院のための荷物を抱え必死に唇を噛んだ。

 大学生になり、私は進学のために家を出た。新しい環境と生活、めまぐるしい人間関係に頭が追い付かなくなった。そうして実家に帰ることも減り、祖父母の家に行くこともなくなった。
 大学二年の冬、祖母が危篤だと母から連絡があった。一人暮らしの家から四時間かけ、祖母の入院する病院へ向かった。乱れる息を整えながら病室に入ると、両親と祖父が立っていた。ベッドの横にある機械はまだ祖母が生きていることを示していたが、みんなの表情からもう長くはないのかもしれないと悟った。
 病院の先生から、何かあれば連絡すると告げられたため私たちは一度家に帰ることにした。父の運転する車中、私と祖父は後部座席に座っていた。車のスピーカーから、空気が読めないかのように笑っているパーソナリティがメールを読み上げる声が響く。
「今度、焼き芋しような」
 隣からの声にはっとして顔を向けると、祖父はこちらを見て少しだけ笑っていた。

 次の日の明け方、祖母は亡くなった。
 そしてその半年後、追いかけるように祖父も亡くなった。老衰だった。

 結局、落葉で焼いた焼き芋を一緒に食べる約束は叶わなかった。祖母が亡くなる前、どうして急に祖父が焼き芋の話をしたのかは分からない。ふと思い出したからなのか、重い車中を明るくしようとしてくれたのか。もしかすると、私が子供だった頃のあの約束を、ずっとずっと覚えていたのかもしれない。
 私は社会人になった。落葉で焼いた焼き芋を食べることはまだできていない。

吐息

 いくら着込んでも冬は寒さを感じさせる。それさえも愛おしいと思えたのは、隣に彼がいたからだろうか。
 同僚である彼とのデートは、仕事が終わり夕食後の彼の車でのドライブから始まる。市街地から車を三十分ほど走らせ、トンネルを抜けた先にある海沿いの駐車場に車を停める。エンジンと暖房はつけたままひとつのブランケットを二人で分け合い、今日の仕事の話をしたり互いの手と手を絡ませたりして、ゆっくりと流れる時間を共有する。一日の終わりに彼と一緒にいられることが何よりの幸せだった。
 会話が少し落ち着いた頃、いつも彼は自販機で飲み物を買ってきてくれる。私にはミルクティー、彼はブラックコーヒー。少しのあいだそれぞれ指先を温めてからフタを開け、口の中にも温かさを広がらせる。
 時々、飲み物を買いに車を降りた彼の後ろをついて行くことがある。自販機の前に立つ彼の、私より二回りくらい大きな背中に抱きついて、彼が飲み物を買うところを横からまじまじと眺める。
 車に戻るあいだも後ろから抱きついたままでいると、頭上から、歩きにくいよなんて笑い交じりの言葉降りかかる。彼が笑っているから、私も笑う。でも、いつまでも私は、私自身を押し殺したまま。
 ねえ、遠距離の彼女とはいつ別れるの?
 何度デートをしても聞けない問いは私を凍えさせ、彼の買ってくれるミルクティーでも、ましてや自分で吐いた真っ白な息でも温かさをもたらしてくれることなんてない。

「寒いな」
「……うん、さむいね」
 さむいよ。ねえ。

 それはそれは、とても大きな一軒家だった。

父親の転勤でこの田舎町に引っ越して来て、荷解きの合間に家族全員分の昼食の買い出しに出た。近所のスーパーを探し、お弁当とお惣菜を適当に買い物カゴに入れて帰路につく。途中、道の向こうまで続く長い塀と、その中にある大きな家が目に入った。
「おっきな家……」
 両手にレジ袋を提げて呆然と立ち尽くす。じっと見入りながら引っ越し先の自宅の方へ歩みを進めていくうちに、ちょうどこの家の門の前を通った。
 勝手に見てははいけないと思いつつも好奇心には勝てず、少し顔を覗かせて敷地の中を見回す。立派な松が植えられ、その横には池もあり、真正面には一軒家が鎮座していて、その屋根には重そうな瓦がびっしりと敷き詰められていた。
「うちになんか用?」
 あまりに別世界な門の内側と覗き見ていると、背後から声をかけられた。
 声に驚いて振り返ると、真っ白な髪の毛の和服姿の少年が立っていた。その幼い顔立ちと、銀にも見える白髪、着物姿のアンバランスさに驚いていると、訝しげな顔でため息をつかれる。
「で、アンタ誰」
 私があまりに何も言わないからか、痺れを切らした少年にもう一度問いを投げつけられる。
「や……あの、今日引っ越してきたばっかりで……」
 この家に用事がある者ではないことを伝えたかったが、緊張して聞かれてもいないことを口走ってしまった。
「ああ、そう」
 息を吐くようにそう言うと、着物姿の少年は小さく足音をたてながら門の中へ入って行った。
 この家の子どもさんなのだろうか。明らかに私より年下だったから、小学生くらいだろうか。それにしても高そうな着物を着ていたな。きっとお金持ちの家だろうから、もう関わることはないだろう。
既に姿も見えないあの子のことを思いながら立ち尽くしていたが、ほどなくして両手の袋がじわじわと重くなる。存在を忘れていた昼食の入ったレジ袋が手に食い込んでいたため、ガサガサと一度持ち直してから私は自宅へと急いだ。

夏休みも過ぎた中途半端な時期の転校というのもあってか、新しい高校へ通い始めた後も友達はできなかった。あまり変にふるまっているつもりもないが、肩身の狭い思いでお弁当を食べ続けて、気づけば二週間が経っていた。
 気晴らしに下校ルートを変えてみようと思い、ふとあの大きな家のことを思い出して、家の前を通る道へ向かう。あの少年はいるだろうか。不思議な雰囲気をまとった彼のことが気になり、自然と歩みは速度を増していく。
 長い塀が見え、塀の中には変わらずにあの日見た大きな家があった。いつ見ても立派な門が見えて、向かう足取りが慎重になる。門の前までたどり着き、あの日のようにそっと中を覗く。記憶の中にあるあの日の風景と一緒だった。
 少しの間見回していたが彼がいるわけもなく、帰ろうと思いふと家の二階を見ると、窓の内側から腕を組んでこちらを眺める彼がそこにはいた。何だかうれしくなって、どうしてそんなことをしたのか分からないが、気がつけば私は手を振っていた。そんな私を見て、彼は呆れたように目を伏せ、奥へと消えて行った。まさか会えるとは思っていなかったから、一瞥されたとしても心は満たされていた。
 次の日もいつもと変わらない一人の日常を過ごし、足は自然と昨日と同じ道へ歩みを進める。昨日と同じ時間。だが彼は現れなかった。
 次の日もその次の日も帰りにあの家の前を通り、窓際に彼が現れた日は手を振り、姿が見えない日は次に会える日を楽しみにしながら帰宅した。
 もう彼の家の前を通ることが日課になった頃、いつもの時間にあの家の前に向かうと、二階の窓には既に着物を着た彼の姿があった。こんなこと初めてだったから、普段より大きく手を振った。そんな私に対して、彼はいつも呆れた様子で奥へ入って行くが、今日はほんの小さく右手を上げた。なんだか少し気まずそうに上げていた手を下ろし、今日は一段と早く窓から離れて行った。
 言葉を交わしたわけではなかったが、少しだけ仲良くなれたような気がして、浮ついた気持ちを抑えなら門の前を離れ、帰路についた。

「よかったら一緒にご飯食べない?」
 ようやく一人のお弁当にも慣れてきた頃、クラスメイトの一人に声をかけられた。言われるがまま椅子を持っていくと、そこには既に別の二人が机をくっつけて私たちを待っていた。
「都会の方から来たって聞いてさ、いつ声をかけようか迷ってたんだけど」
 その言葉に気遣いのようなものはあるものの、今までの変な壁なんかはまとわれていないような気がした。お弁当を囲みながら、このクラスにはどうしてか内気な人が多いこと、私が元々住んでいた街中のこと、好きな芸能人のこと、短い時間でたくさんのことを話した。
「今日さ、一緒に帰ろうよ」
 その日から、この子たちと一緒に過ごすことが多くなった。会話も増え、放課後に寄り道をすることが増えた。帰り道も変わった。もしかしたらいじめられるのではないかという転校当初の不安もなくなり、いつしか季節は冬が過ぎ、もうすぐ春になろうとしていた。
 春休みも目前となったある日、彼女たちはそれぞれ用事があるからと、久しぶりに一人で帰ることになった。そういえば、あの大きな家の少年は元気だろうか。確かこれくらいの時間にいつも通っていたし、姿が見られるといいけど。暖かな陽気に包まれながら、久しく通っていない道を歩く。
 長い塀が見えたが、なんだか少し様子がおかしかった。もともと静寂に包まれている家だったが、それにしても違和感があった。胸が変な高鳴り方をする。なんだろう。焦る気持ちが私を門の前へと走らせていた。
 違和感の正体はすぐに分かった。この家にはもう誰も住んでいないようだった。手入れされずに伸び切った松。前に見た時は澄んでいた池も、今ではすっかり濁っている。彼がいつも顔を出していた二階の部屋のカーテンも取り払われ、一目見てここにはもう住人はいないのだと、分からせる光景だった。
「もう、いないん、だ」
 無意識に口をついた言葉は、春の暖かな風に乗って彼方へと消えていく。私、あの子の名前も知らなかったんだな。こんなに大きな家に住む人がいなくなるなんて。未だに受け入れられない事実がぐるぐると頭を巡り、私は門の前にいつまでも立ち尽くしていた。
 
 それはそれは、とても大きな一軒家だった。