寂寥のあと

幾美(いくみ)といいます。小説や日記を書いています。

海とあの子

 明るく透き通った海を見て、一目散に駆けて行った彼女。 

「早くおいでよーっ」

  最高気温が三十七度を記録した夏も終わり、穏やかな気候がやってきたと思えば、彼女が突然海を見たいと言い始めた。もうすぐ十月になるし寒いかもしれないと心配したが、 頑固な彼女が一度決めたことを覆すことはなかった。

 幼馴染という立場がもう何年続いているだろう。明るくて美人な彼女は、小学生の頃も 、中学生の頃も、高校生になった今でも男女問わず人気がある。みんなみんな彼女のことが好きだ。そして僕も、彼女が好きだ。

 シーズンが終わった海水浴場には、僕たちの他に犬と一緒に散歩をしているおじいさんしかいない。靴も靴下も脱いで足首までを海の中に突っ込んでいる彼女は、じっと立ち止まり一生懸命制服のスカートを巻いて丈を短くしていた。

「いや見えるって」 

 遠くの彼女に向かって、聞こえるか聞こえないか分からないくらいの声で話すと、スカ ートに手をやったまま顔だけこちらを向き、じゃあここまでにするー、と間延びした返事がある。 

 一通りスカートを調整して満足したであろう彼女は、バシャバシャと音を立てて水しぶきをあげ始める。 

 僕を置いて海へと走って行った彼女にようやく追いつき、砂浜に脱ぎ捨てられた彼女の靴と、その近くに置き去りにされた彼女の鞄とを一ヶ所に寄せる。ついでに近くに自分の鞄も置き、準備していた二人分のタオルを取り出して鞄の上に落とす。 屈んで、ズボンの丈を三回ほど捲り上げると一応濡れないであろうほどの長さになる。 靴下とスニーカーを脱ぎ歩みを進め、海に足をつける。そして、バシャバシャと心地よい水の音のする方へ向き直る。


 秋の晴天に祝福された天使のように、温かい光を背に彼女は踊る。舞い上がる水しぶきが羽やしっぽに錯覚するほどに。僕が知らないだけで、彼女は神の遣いか、天使なのかもしれないな。


「綺麗......」 

 発するつもりのなかった言葉が彼女に届いていたかは分からない。ただ、彼女はタイミ ング良く振り返る。声が聞こえたからなのか、僕が海に入ったことが分かったからなのか。どうして彼女が振り向いたのかは分からなかったが、ん、という言葉にもならない声と 共に差し出された両手を、僕は上から握りしめることしかできなかった。

 好きだよ、好き。ずっとずっと君が好きなんだ。今度は辛うじて声にしなかった言葉を押し留め、しばらく彼女の両手を握り続けていた。